成熟と崩壊,夏の終わりに [作曲]
日が長くなってくると,なんとなく憂鬱が増してきます.
どうも頭が原始的に出来ているらしい.
考えることが生とか死に関することで,
例年のことですからしかたがありません.
歳を重ねることって本当に成熟と言えるのだろうかとか,
身に付いた垢のようなものが積もって,
洗練とはほど遠いところで
自己満足している自分がいるだけではないのかとか,
こうなると歳の重圧に押しつぶされたような
無残な崩壊ばかりが目に付き気が滅入ります.
まあ,汗を流して働いていると
鈍い感覚に秋の風は心地よいのですが・・
新しい曲はいつものソネットのブログにUPしました.
タイトルは”an eplogue of the summer"です.
いらいらした曲ではないので聴いてみて下さい.
回転木馬とか [作曲]
リズムの拘束が強い場合,そこから抜け出れなくなって一種の陶酔状態になるという話を以前書きました.今回はまさにその話で,結局回転木馬のようなこの曲から脱出することが出来なかったようです.
僕の大好きな哲学者の一人ににロラン・バルトがいるのですが,彼の”恋愛のディスクール”は大病になった時も読み耽って何度も眠れぬ夜を遣り過ごしました.どこかバルトの生々しい声が刻まれていて,短い断章から思考の由来が見え隠れするのです.恋愛というよりは,愛するということの手に負えない性格をいろいろな断章から読み取ることができました.
例えば
”こころとは,わたしの手元に残ってしまったもの,なのだ.そして,わたしのこころに残されたままのこころは,重く悲しい.引き潮の思いに満たされて重い(恋するものと子供だけが重いこころをもつのだ).”
とか,
”フェディング現象は,あの人の声について起こるものである.愛する人の消失を実証し,読みとらせ,いわば完遂させることになるのは,その声なのだ.死ぬことこそが声の特性だからである.”
とか
沢山の文章に線を引いて,何度も読み返したことが思い出されます.そのバルトが恋愛をして”統合的なものではない”水平的なものであると強い調子で断言しているのには驚かされました.フィギュールと呼ぶ一種の型は完全に孤立して,隣接性を規定できないこと,まるで永久暦のように次々とめぐり続けるが,決して物語を形成できないというのです.
今回の曲を作っていて,ふとこのことを思い出してしまいました.曲はいつものso-netのブログにUPしてあります.
もう気分は秋・・でも暑い! [作曲]
例年の事なのに,今日の暑さにはまいりました.
最高気温が36.7度は慣れていますが,湿度が異様に高い!
外で雑草を抜いたり,枝打ちをしていたのですが,汗が流れ落ちてマラソンをしているように息苦しくなって来ました.
盆地からは暑い鍋が沸き立つように白いもやが立ち上り,燃える大気がゆらゆらと天空に手を伸ばしています.
いくらなんでも”もう気分は秋”はないですよね
実は新しい曲が,なんとなく都会の秋という雰囲気に成ってしまいましたので.これで少し涼しくなって下さい.
曲はいつものso-netで聴けます.
http://
写真はアメリカ東部プリンストン大学構内の秋の風景です.
留学していた70年代終わりの雰囲気が車やアナログ写真のぼけ具合から分かりますね.
音楽には合っていますが,甲斐市のここからは季節はずれです.
それにしても暑いな〜
これからずっとこんな暑さが続くそうです.やれやれ.
心の振動と表現 [作曲]
音楽にリズムはつきものですが,文章にもリズムが有るし,リズムは音楽だけのものではないと前から思っていました.しかし,スタイルの区分けのようなものになってしまうと肝心の処が見えなくなってしまうようで,どう考えたら良いのか正直言ってよくわかりません.今回曲作りの真似事のような事をしている内に,テンポとかリズムの持つ意味の一部分がうっすらと見えて来たような気がします(勘違いかもしれませんが).
定型的なリズムはジャズやポップでは主流ですが,これに乗ると気持ちが安定し,一種のトランス状態に成る時があります.別に音楽が心の安定を作り出すとは限らないというか,安定した心の方がこういう音楽と相性が良いように思えます.近代に入ってからのクラシック音楽というのは形式の自由度がどんどん大きくなり,精神的なダイナミズムを極限まで表現できるようになったと同時に,不安も抱えるようになったというのは言いすぎでしょうか.
こんどの曲のタイトルは「a song from the cosmoso」,ちょっと大げさですがポップでないものを表現したつもりです.だんだん言うことがでかくなってきました.
曲が置いてあるURLは前と同じso-netです.
http://
舞踏・桜座.未完の詩 [作曲]
舞踏家,田中泯氏のインドネシアでの旅をドキュメントした秀作:「ウミヒコヤマヒコマイヒコ」の上映が開かれるということで,甲府市の中心に位置する小劇場,桜座に出かけて来ました.甲府市も地方都市崩壊の例にもれず,シャッター通りをつっきっての入場です.驚きました!内部は真っ黒な廃材や投げつけたままのコンクリートで,圧倒的な存在感です.
上映は2時間ほどで終わりました.なんとも言えない余韻が後を引き,頭が混乱して言葉が出てきません.感動とかそういった質のものでは無いのです.終わって田中氏のあいさつが有りました.激しく暖かい人柄が立ち昇ってくるような声に魅せられて,その後の歓談会にも出席しました.思い切って写真集に記念のサインをお願いしたのですが,その時ちょっと僕が馬鹿なことを言ってしまったのが悔やまれます.”物語”について僕がかなり舌足らずのことを言ったのに,本当に誠実に応えて頂きました.帰る自動車の中でもその時のことを思い出し,今も考えが頭の中を駆け巡っています.
ノスタルジックR&Bの新バージョン2はこういった状況の中で,ほったらかしておいた詩を背景に作りました.詩と曲は一緒にいつものso-netのブログにUPして有りますので訪問下さい.
http://
今回の曲は「ノスタルジア」 [作曲]
夕暮れまで遊園地で遊ぶ子供を見かけることはすっかり無くなりました.子供達をとりまく環境がそれを許さないだろうし,なによりも安全に対する信頼が消えたというのが大きいのかもしれません.
ノスタルジアというのは一種の病気と言う解釈も有りうるようです.辞書を引くとnostalgiaはギリシャ語の”帰る”を意味するnostisと,苦痛を意味するalgosに由来するそうです.帰還への苦痛をともなうほどの憧れが響いて来ますね.
写真を整理していたらこの光景が思い出されました.無性に懐かしくなり一気に曲をしあげたのですが,大声をあげて泣きたくなったのはなぜでしょうか.
原曲は5Mの制限を遥かに越えてUP出来なかったため,今回はフェードをかけ短くしました.録音もMP3にレンダリングした時かなり劣化したようです.それでも何か訴えるものは出てきたように思うのですがどうでしょうか?
so-netのブログもそろそろ発表の場としては5M制約がきつくなってきました.symplexus工房のHPの容量も小さすぎです,とかなんたらかんたら,なんか言うことが態度でかくてかわいくない
タグ:スタルジア 夕暮 子供
作曲二作目はちょっとシリアスな・・ [作曲]
ACIDによる曲作りに取り憑かれて,
また夜更かしが始まってしまいました.
足の骨折リハビリには最悪のソフトですね.
2作目はアップテンポの一作目からがらっと変わってしまいました.
日記にはサウンドがUP出来ないみたいなので,
前回と同様so-netのブログの最新日記を開いて見て下さい.
http://
添付した写真はかなり昔,東北の奥松島と下北で撮ったものです.
なぜ東北なんですかね〜.良く分かりません.
作曲ソフト;ACIDってすごい! [作曲]
作曲できたらな〜というのは,
僕のような楽器ダメ,読譜ダメ,音楽理論ダメにとって
本当の嘆きなんですよね.
あきらめていたのに,どこかでしっこく囁く声が有って,
先日店頭で見た”ACIDであなたもミュージシャン”を買ってしまいました.といってもCD付の古本,軽い遊びのつもりでした.
説明はこんなに簡単で良いのと思うぐらいシンプル,
2,3曲つくってバージョン・アップを繰り返している内に
何とか曲らしくなりました.
Masさん,Nijoさん,・・・,
以下のURLにアクセスして第一作目を笑ってやって下さい.
http:// blog.so -net.ne .jp/sym plexus/
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僕のような楽器ダメ,読譜ダメ,音楽理論ダメにとって
本当の嘆きなんですよね.
あきらめていたのに,どこかでしっこく囁く声が有って,
先日店頭で見た”ACIDであなたもミュージシャン”を買ってしまいました.といってもCD付の古本,軽い遊びのつもりでした.
説明はこんなに簡単で良いのと思うぐらいシンプル,
2,3曲つくってバージョン・アップを繰り返している内に
何とか曲らしくなりました.
Masさん,Nijoさん,・・・,
以下のURLにアクセスして第一作目を笑ってやって下さい.
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